はじめに
日本人のコミュニケーションは#65378;遠慮と察しのコミュニケーション#65379;であるとされている。中國語を母語とする日本語學習者は、日本人がものごとをはっきり言わず斷定的な表現(xiàn)を避けることから、日本人は曖昧な言い方をすると誤解しやすい傾向にある。コンテキストへの依存性が高く、省略や婉曲表現(xiàn)が多い日本語の話しことばの特徴を理解することは、円滑なコミュニケーションを図るためにもとても大事なことである。
一、「あいまい表現(xiàn)」の背後に潛む「過剰配慮」の心理
日本人の「あいまい表現(xiàn)」は日本人のコミュニケーションにおける一大特色といってよいであろう。日本人は何故このような「あいまい表現(xiàn)」を好むのかという問題は、日本人の過剰配慮の心理に深く関わっていると考えられている。この過剰配慮の心理というのは、日本人が人間関係において自他の感情の動きに実に敏感に気を配ることを指したものである。日本人は人と人とのコミュニケーションに際して、お互いに相手の感情の動きに気を配り、できるだけ相手の意に沿った形でコミュニケーションしようと心掛ける。従って、相手の意に沿わぬ事柄を伝達しようとする場合、婉曲であいまいな表現(xiàn)をとることによって相手の感情を傷つけることをできるだけ避けようとするのである。これは、相手の気持ちへの配慮であるが、この配慮は同時に自分が人から良く思われたいとする自分自身への配慮をその裏側(cè)に含んでいることを見過ごすわけにはいかないであろう。このように、日本人のコミュニケーションは、こうした自他の感情の動きへの過剰ともいえる配慮から、「相手に合わせる」コミュニケーションを原則とし、不一致はぼかす、というパターンをとるのだと思われる。
それではこのような過剰配慮の心理が日本人のコミュニケーションのあらゆる局面で常に現(xiàn)れてくるのかというと決してそうではない。そこには一定の法則性がある?!袱饯蔚谝护?、相手との心理的距離である。親子、夫婦、兄弟といった親密な間柄をウチ、全く無関係な赤の他人をヨソ、學校、職場、近隣の人々といったウチとヨソとの中間的な距離の人々をソトと呼べば、過剰配慮の心理はソトの人々とのコミュニケーションにおいてもっとも強くなるのが一般的である。それ故、ウチのような隔てのない間柄でそれを行えば、それこそ他人行儀なものとなってしまうのである。第二に考えられることは、上下関係や優(yōu)位劣位といった力関係の要因である。一般に「あいまい表現(xiàn)」は下位者劣位者から上位者優(yōu)位者に向かってなされるコミュニケーションに多く見られ、その逆は少ないということである。第三點は、表と裏、あるいはタテマエとホンネといった局面である。」(中山1983)最後に、日本人のコミュニケーションにおけてよく強調(diào)される「察し」が、この過剰配慮の所産であることを指摘しておきたい。モノいわぬ乳幼児の意志を「察して」こまごまと世話をやく日本の母親の行動は、子供の気持ちに対する過剰な配慮なしには成立し得ないのである。
二、 「察し」のコミュニケーション
日本人の異文化理解とコミュニケーションにとって一番大切なことは、自分の行動パターンを相手に説明する努力なのである。ところが、ここでネックになるのは、日本人の「察しの文化」である。「察し」とは、集団の成員が多くの了解事項を共有しているところに成立するコミュニケーションの様式である。非言語的な行動表現(xiàn)も、含蓄に富む言語表現(xiàn)も、受け手のそれらに対する敏感性、つまり「察し」をあてにしている。
「ある意味でコンテクストとは、物事の一つの見方にすぎない。しかしながら、コンテクストの違いを考慮に入れないと面倒なことになりかねない。低いコンテクストの文化に比べて高いコンテクストの文化は、ウチ者とヨソ者の區(qū)別が非常にはっきりしている。高いコンテクストの體系に育った人は、低いコンテクストの體系に育った人よりも、他人に対してより多くのことを期待する。高いコンテクストの人は、自分の悩みを語るとき、聞き手がその悩みについて、すでに知っていることを期待し、具體的に語る必要はないと思っている。したがって彼は、遠回しに話を運び、核心だけを殘す。その核心を補うのは、聞き手の役割であり、それを話し手がやってしまっては、聞き手の役割であり、それを話し手がやってしまっては、聞き手をないがしろにし、その人格を尊重していないことになる。」(E#12539;Tホール1979)
「察し」を働かせることでなり立つ日本人のコミュニケーションは異文化の人とのコミュニケーションにおいてマイナスに作用する面がある。日本人の行動について情報の蓄積のない外國人は、日本人の意図や行動を察することが難しいからである。ベルリンで行われた日獨コミュニケーション#12539;シンポジウムで米國の文化人類學者のエドワード#12539;ホール氏は「日本社會はコンテクスト(言葉で表現(xiàn)されていない情報の蓄積)が高く、ドイツは低い」と述べた。また、「日本人は言語表現(xiàn)の形をとらない文化を優(yōu)先し、いわば無言の共通情報を前提とした合意によってコミュニケーションを図る。このことが言葉で直接表現(xiàn)された文化や情報を大切にするドイツ人との間に誤解を生む原因になる」と説明した。これに対して、ドイツ人の立場から共感する意見が相次いだという。また、外國人が、日本社會で行動するのに必要なったのである。
參考文獻
大石初太郎(1971) 『話しことば論』秀英出版
金田一春彥(1988) 『日本人の言語表現(xiàn)』講談社
黒沢 勉 (1999) 『言葉と心』信山社
芳賀やすし(2004) 『日本人らしさの構(gòu)造』大修館書店
多田道太郎(1988) 『身辺の日本文化』講談社
(郝巖:大連外國語學院)