キーワード: 書(shū)斎 男の城 救えない論理の世界
作家漱石の目に映っている書(shū)斎はどのような存在であろか?!旱啦荨护韧复笳哪辘?、漱石は隨筆『硝子戸の中』を書(shū)いた。その中から漱石の「書(shū)斎」のことを吟味できる。
漱石は自分の「書(shū)斎」の事を「硝子戸の中」と呼んでいる?!笗?shū)斎」が「小さい私と広い世の中とを隔離している所だと思い、「書(shū)斎に獨(dú)り坐つて、頬杖を突いた?jī)崱⒘鳏欷蛳陇胫郅韦浃Δ?、心を自由に遊ばせて置く」(二十三)とあるように、漱石にとって、「書(shū)斎」は俗世界から隔離でき、心を自由に遊ばせる存在である。そして、漱石はそのような意味での「書(shū)斎」を『道草』にも書(shū)いている。主人公健三は「書(shū)斎」の人であり、毎日「書(shū)斎」に籠っている。健三にとって「書(shū)斎」が大事で、まるで自分の精神世界の託する存在のようである。
『硝子戸の中』には次のような文章が見(jiàn)える?!溉护毪松魉饯掀蓼刃鷩Wをしてゐた。私は厭な顔をした?jī)?、?shū)斎に凝と坐つてゐた」(二十五)。書(shū)斎が好きな漱石は、妻鏡子と喧嘩したら、自分一人で書(shū)斎に座っていたという経験がよくある。同じ様に『道草』における「書(shū)斎」は、主人公健三にとって大事な存在であり、自分の精神世界の靜かな場(chǎng)所である。健三は「肝心」な六畳の「書(shū)斎」の中で「自分のする事が山のやうに積んであるやうな気持でゐるのである。けれども実際から云ふと、仕事をするよりも、しなければならないといふ刺戟の方が、遙かに強(qiáng)く彼を支配してゐた。自然彼はいら?しなければならなかつた」2.?!副摔献苑证握iみたいものを読んだり、書(shū)きたい事を書(shū)いたり、考えたい問(wèn)題を考へたりしたかつた。それで彼の心は殆んど余裕といふものを知らなかつた。彼は始終機(jī)の前にこびり著いてゐた」3.。書(shū)斎に籠っている健三は、多數(shù)の人から神経衰弱だと評(píng)された。しかし、彼自身はそれを自分の性質(zhì)だと信じていた。神聖で靜かな「書(shū)斎」は健三にとって、俗な世界から、妻との感情の行き違いから、一時(shí)的に離れる場(chǎng)所である。
この「己の世界」には健三一人しかいない。彼はお住とお互いに理解し合えず、交流が進(jìn)まない場(chǎng)合に「書(shū)斎」に入り、書(shū)物を伴った「論理」の世界に入る。あるいは、「書(shū)斎」で何もせずに、じっと座っている?!笗?shū)斎」は彼の逃げる場(chǎng)になっている?!旱啦荨护沃肖舜韦韦瑜Δ蕡?chǎng)面がある。
彼女の持つた心の鏡に映る神経質(zhì)な夫の影は、いつも度胸のない偏窟な男であつた。
「放つて置け?」
健三は反問(wèn)した。細(xì)君は答えなかつた。
「今迄だつて放つて置いてるぢやないか」
細(xì)君は猶答へなかつた。健三はぷいと立つて書(shū)斎へ入つた。(六十一)
これは健三とお住夫婦のよくあるうまく交流できないパターンである。江種満子は「健三は妻との接觸を回避すべく、自分の城·書(shū)斎にこもる」と言っている。交流上でいつも逃げっている「論理」の人健三の目から彼の論理はまるでお住に通じなかった?!笇W(xué)問(wèn)をした健三の耳には、細(xì)君のいふ事が丸で脫線であつた。さうして其脫線は何うしても頭の悪い証拠としか思われなかつた?!赣质激蓼膜俊工趣い諝荬工沃肖扦筏俊梗ㄊ模?。これに対して、お住の心の鏡に映る神経質(zhì)な夫の影は、いつも度胸のない偏窟な男であつた。
健三は「遂に機(jī)の前を離れる事が出來(lái)なくなつた。括り付けられた人のやうに書(shū)斎に凝としてゐた。彼の良心はいくら勉強(qiáng)が出來(lái)なくつても、いくら愚図々々してゐても、左右いふ風(fēng)に凝と坐つてゐろと彼に命令するのである」(六十七)。そのような彼は「學(xué)問(wèn)の力で鍛へ上げた」(十)頭を持っている。彼は「論理の人」だと言えよう?!笗?shū)斎」にいる彼は一時(shí)的に俗な世界から離れても、一時(shí)的に落ち著いても、彼は始終孤獨(dú)で、分かってくれる人が誰(shuí)もいない。彼は不愉快である?!笗?shū)斎」は彼にとって完全に救えない世界である。「彼は論理の権威で自己を佯つてゐる事には丸で気が付かなかつた」(十)?!缸匀护蝿?shì)ひ彼は社交を避けなければならなかつた。人間をも避けなければならなかつた。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなる程、人としての彼は孤獨(dú)に陥らなければならなかつた。彼は朧気にその淋しさを感ずる場(chǎng)合さへあつた」3.。
健三の一人しかいない「論理」の世界で、彼は一人でいろいろ考えている。彼は書(shū)斎に入り、「心のうちには死なない細(xì)君と、丈夫な赤ん坊の外に、免職にならうとしてならずにゐる兄の事があつた。喘息で斃れやうとしてまだ斃れずにゐる姉の事があつた。新らしい位地が手に入るやうでまだ手に入らない細(xì)君の父の事があつた。其他島田の事も御常の事もあつた。さうして自分と是等の人々との関係が皆なまだ片付かずにゐるといふ事もあつた」(八十二)。健三はこのように「自分の世界」にいる。
これに対して、妻のお住から見(jiàn)る「書(shū)斎」の世界は、まるで別世界である。お住は、夫が「書(shū)斎で暮らす時(shí)間が多くなればなる程、夫婦間の交渉は、用事以外に少なくならなければならない筈だと云ふ」(九)理屈を持っている。書(shū)斎で書(shū)物も読まず筆も執(zhí)らずただ凝と坐っていた夫の姿を見(jiàn)たら、「家庭と切り離されたやうなこの孤獨(dú)な人に何時(shí)迄も構(gòu)ふ気色を見(jiàn)せなかつた」(五十六)と思っている。この「書(shū)斎」は夫の自分勝手な「座敷牢」であるから仕方がないと考えている。
いつも「座敷牢」の中にいる健三は、子供たちに対して「不人情」である。お住の目にはこのように映っている?!笇W(xué)問(wèn)」をしている健三が自分の子供たちを教育している場(chǎng)面は作品の中には見(jiàn)えず、子供たちと一緒に遊んだり、笑ったりしている場(chǎng)面も見(jiàn)えない。健三の「一人の城」の「書(shū)斎」にも子供たちは滅多に入りなかった。東郷克美は『道草』の「書(shū)斎」について、次のように指摘している。
「書(shū)斎」はいわば「論理」の支配する世界であり、「索莫」とした「淋し」い場(chǎng)所だ?!旱啦荨护?、「書(shū)斎」という「論理」の城砦にたてこもり、押し寄せる世俗の「塵労」
(五十七)とたたかいながら「異様の熱塊」の身をゆだねていた健三が、やがてそれを放擲して「書(shū)斎」から「寒い往來(lái)へ飛び出し」(九十六)て行く物語(yǔ)である。
「書(shū)斎」は健三にとって、「男の城」であっても、「自分の作った座敷牢」であっても、それが自分一人しかいない論理の世界である。彼はこの中で苦しんだり、悩んだりする時(shí)があり、孤獨(dú)で淋しく感じたりする時(shí)があり、落ち著いて好きな事を考えたりする時(shí)もある。この「書(shū)斎」の中の世界を分かってくれる人は誰(shuí)もいないかもしれないが、この中には一人の明治知識(shí)人の現(xiàn)実に対する感慨と複雑な內(nèi)心世界がある。
參考文獻(xiàn):
[1]『漱石全集』(平成五年、巖波書(shū)店).
[2]夏目漱石『道草』(大正四年十月、巖波書(shū)店).
[3]荒正人『漱石研究年表』(昭和五十九年、集英社).
[4]『漱石全集』第十六巻(平成七年四月 巖波書(shū)店).
[5]江種満子「『道草』の妊娠·出産をめぐって」(『漱石研究』平成五年、翰林書(shū)房).
[6]東郷克美「「道草」――「書(shū)斎」から「往來(lái)」へ――」(『國(guó)文學(xué) 解釈と教材の研究』〈特集 漱石「道草」から「明暗」へ〉昭和六十一年三月、學(xué)燈社).
【作者簡(jiǎn)介】朱翔,玉溪師范學(xué)院。