【摘 要】本文通過(guò)對(duì)日本古代“七夕”習(xí)俗的基本情況及其產(chǎn)生過(guò)程的考察與分析,探討日本傳承接收中國(guó)文化的基本態(tài)勢(shì)。
【關(guān)鍵詞】日本;七夕;習(xí)俗
はじめに
「七夕」は日本においても中國(guó)においても鮮明的な特色を持つ民族節(jié)句として昔から存在してきた。本文は主に日本古代における「七夕」風(fēng)俗の基本的な形態(tài)及び発展過(guò)程を考査分析する上で、日本民族がいかに中國(guó)文化を受け入れてきたその基本的な態(tài)勢(shì)を検討する。
1.中國(guó)文化を吸収した「七夕」
紀(jì)元7世紀(jì)、唐王朝はアジア各國(guó)の政治、経済、文化の中心となった。中國(guó)の先進(jìn)文化を習(xí)うために、公元607年に遣隋使の小野妹子をわが國(guó)へ派遣した。紀(jì)元710年、日本當(dāng)時(shí)在位の天明天皇は帝都を飛鳥(niǎo)(あすか)から平城京(今の奈良市內(nèi))に移した。この時(shí)期日本から中國(guó)へ派遣した遣唐使の規(guī)模が大きくて、遣唐使の全盛期と言ってもよい。遣唐使及び跡をついた留學(xué)生、僧侶たちは唐朝から習(xí)った先進(jìn)文化を日本へ持ち帰っただけでなく、當(dāng)時(shí)の中國(guó)の風(fēng)俗習(xí)慣をも日本に紹介した。
七夕風(fēng)俗はまさにこの時(shí)期日本の宮廷活動(dòng)に現(xiàn)れたのである。日本史料『大日本史』の記載によると、天平六年(734年)七月七日、天皇は相撲の演技を観賞した後でその場(chǎng)にいる文人たちに「七夕の詩(shī)」を作らせた。これは日本朝廷が中國(guó)の「七夕」を日本宮廷の儀式にした始まりとなった。天平勝寶七年(755年)の七夕の夜、天皇は牽牛、織女を祭るために清涼殿で機(jī)を置いて、この上で瓜と果物も供し、明るい蝋燭もつけた。當(dāng)時(shí)の儀式の過(guò)程は『開(kāi)元天寶遺事』に載せた楊貴妃が七夕華清宮を遊覧することとほぼ同じである。日本奈良時(shí)代の正倉(cāng)院は今までも中國(guó)の文物を數(shù)多く殘して置いた。中には「七つの穴がある針」と言われる針道具が特に目立っている。また、中國(guó)現(xiàn)存最も古い行政法典『大唐六典』には「中尚書(shū)」が七月七日に「七つの穴がある金細(xì)針」を獻(xiàn)呈することについても記載があった。これらのことから當(dāng)時(shí)日本宮廷の行事の中で、中國(guó)の風(fēng)俗への模倣はそれほど細(xì)かいのがたやすく分かるようになった。
2.発音が獨(dú)特な「七夕」
しかしながら、日本の「七夕祭り」は完全に中國(guó)「七夕」風(fēng)俗の複製品であると言ってもいいのか。自分自身獨(dú)特の內(nèi)包がないのか。われわれはまず「七夕」と言う発音の中でこの點(diǎn)を捜し求める。もし常用日本漢字の「音読」のとおりに読んだら、「七夕」の読み方は「しちせき」であるはずだが、「訓(xùn)読み」のとおりに「たなばた」である?!袱郡胜肖俊工妊预φZ(yǔ)は最も早く現(xiàn)れたのは日本の『古事記』である。當(dāng)時(shí)は単純に「棚機(jī)」の「訓(xùn)読み」として現(xiàn)れたので、未だ牽牛、織女星と一つの繋がりもなかった。平安中期の辭書(shū)『和名抄』(931-938年)の中で初めて織女星と関連があるようになって、「機(jī)を織る女性,棚機(jī)津女」の「訓(xùn)読み」となった。しかし、「棚機(jī)津女」もともとの意味は「清き水辺の棚作り機(jī)屋にこもり、神の訪れを待ちながら、神衣の布を織っている乙女である(折口信夫「水の女」『折口信夫全集』二)」。これを見(jiàn)て以下のことが自然に説明できる?!钙呦Α工瞎糯稳毡兢悉郡乐袊?guó)文化を勉強(qiáng)して吸収したのみならず、日本文化の中で固有の純潔な少女が神を祭ると言う伝統(tǒng)信仰もあった。その二つの概念を互いに折衷して調(diào)和してから「七夕」の日本語(yǔ)の発音が形成されたのである。
3.日本社會(huì)の伝統(tǒng)信仰を溶け込んだ「七夕」
古代の日本には、「七夕」の前の日に商売人たちが街で聲を張り上げて竹の切れまたは竹の枝を売り歩く風(fēng)景は見(jiàn)られた。少女たちは自分の頭がよくて手も器用であることを願(yuàn)うために買った竹の切れに和歌或いは自分の祈りごとを書(shū)いて、それを五色紙と一緒に結(jié)んでいろんなところにぶら下げた。それは完全に中國(guó)の風(fēng)俗の影響である。しかしながら、七夕の夜、人々はまた自分が書(shū)いたものを川に或いは海の中に入れた。そうするのは祈りごとの書(shū)いた紙が川に沿って流れることを期待したからである。この「七夕流し」と言われる風(fēng)俗は日本にしかない。そのほかに、日本の東北地方には七夕の時(shí)に沐浴して七回も壽命が延ばせると言う説もあった。ある地域で人々は先祖の恩を報(bào)いるために「七夕」の時(shí)カメを洗って水を替える習(xí)慣もあった。東北から九州までこの日の夜、みんな提燈を川に入れたり人形を流したりという伝統(tǒng)もあった。
これらの民間風(fēng)俗は中國(guó)歴史上の七夕の伝統(tǒng)的な観點(diǎn)から説明すれば、つじつまがまったくあわないだろう。日本固有の伝統(tǒng)信仰の中でこそ探求できる。日本の伝統(tǒng)信仰の中で、以下の伝説があった?!干瘠蝸?lái)臨を待ち、一夜を神に侍して過(guò)ごす聖なる乙女があり、これを棚機(jī)女といった。人里離れた水辺の機(jī)屋に籠り、神を待つ神女はそこを祭場(chǎng)として神を祭り、神の帰るのを送る日には、村人が禊を行い、或いは送り神に託して穢れを持ち去ってもらう?!?/p>
日本の「七夕祭り」は発音が獨(dú)特だけでなく、中國(guó)の「七夕」風(fēng)俗と異なった顕著な特色もある。特にその中の「神を迎える」、「神を祭る」、「神を送る」など日本社會(huì)の伝統(tǒng)信仰を反映しないものはない。また、「祓禊」の祭りもの(祈りごとが書(shū)いてある竹の枝は川に沿って流れていくこと)は日本の伝統(tǒng)信仰の中で唯一のものではない。日本の「三月三日雛祭り」、「お盆」など民俗習(xí)慣の中では自分自身の「穢れ」を特定的な「祭りもの」に移してそれを川に沿って流す風(fēng)景も數(shù)少なく見(jiàn)られる。これでも分かるように、日本の「七夕祭り」は伝統(tǒng)的な中國(guó)の神話を基礎(chǔ)にして、日本古代神話の中で穢れへの反感と清潔への追求も溶け込んでいて、人々が清潔少女になりたい気持ちを織女に託すという働きがあるようである。
4.終わりに
牽牛、織女伝説は中國(guó)に源を発して、古代中國(guó)人の美しい愛(ài)情生活への憧れと追求を反映した。時(shí)間の経つとともに、牽牛、織女伝説は日一日に人格化、類型化されてきた。日中の國(guó)民に感動(dòng)され、だんだん受けられた。また、日本人は伝統(tǒng)の中國(guó)の牽牛、織女伝説を受けた上で、中國(guó)から伝來(lái)した「七夕」を日本人固有の文化伝統(tǒng)、審美意識(shí)、固有の風(fēng)俗と結(jié)び、牽牛、織女に新たな形態(tài)を與えた。日本人が牽牛、織女物語(yǔ)を受け入れて、さらに改めたその段階は文化の変遷過(guò)程という事実を反映している。
中日両國(guó)長(zhǎng)長(zhǎng)しい文化交流の歴史の中で、牽牛、織女伝説はただ僅かな例にすぎない。ただし、その具體的な例を通して、再び日本民族が外來(lái)文化を受ける時(shí)の基本的な態(tài)勢(shì)が表せる。日本民族は本土文化よりレベルが高い文化に対して、自分自身の理想と追及を溶け込んでから取捨を決めて、外來(lái)文化の優(yōu)れている分を妙に本民族の精神土壌に移して、さらに新しい文化圏を形成した。それだけに、日本文化は古代から今まで絶え間なくあらゆる方面から広く引証しても、自分自身の強(qiáng)靭な生命力が少しも欠けることがない。
參考文獻(xiàn):
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